南の島の天体観測
旧掩蔽観測研究会の歴史と回想の掩蔽観測
掩蔽観測研究会の足跡
(1992年8月) 満尾 壽男
☆正式名称: 掩蔽観測研究会(Occultation Research Committee)
☆期問: 1953年 ~ 1964年
☆発注者: アメリカ陸軍極東地図局(U.S Army Map Service, Far East)
☆所属: 53~54 大正興業株式会社
54~64 アジア航空測量株式会社
☆技術指導: 掩蔽観測委員会(Occultation Research Committee)
委員長 武藤 勝彦(地理院)、 橋元 昌実(天文台)、 奥田 豊三(地理院)、
野附 誠夫(天文台) (就任順)
委員 塚本裕四郎(水路部)、宮地 政司(天文台)、奥田 豊三(地理院)、
広瀬 秀雄(天文台)、坪川 家恒(地理院)、神谷 一 (地理院)
☆人員: 研究会観測部 40名(通称オツカル会社)
観測班 4~5名(Astronomer 1,Assistant Astronomer 1~2, Radio Technician 1)
最大時 6班
計算班15名
発端
1948年5月9日北海道礼文島での金環皆既日食(数珠型日食)の観測が思い出される。アメリカの地理学協会はヴァン・ビースプロツク博士の指導の下にピルマ、タイ、中国、韓国、日本、アリューシヤンの六ケ所に観測隊を派遣し、日食時の月の影の移動速度より、大陸間の距離を測定しようとした。これは天文測量の応用として、教科書通りのことであるがタイムの精度の向上や映画撮影によって精密な距離測定が期待された。
一方、月の位置を正確に知るため世界中でなされた掩蔽の観測は、グリニツジ天文台やアメリカのエール天文台でまとめ、計算が行われていた。ところが日本のアマチュアの観測は誤差が大きいとして計算に取り入れてもらえなかつた。東京天文台の広瀬秀雄博士はこの系統的誤差を日本の測地原点の鉛直線偏差が原因であると結論づけられ、日本の地図のずれを指摘された。1948年4月発表。
礼文島での金環食は99.99%の食分が示す通り、中心線の南北長は地上で約1000メートル、広瀬博士による地図のずれの影響は600メートルにも及び、中心線上で観測するつもりが中心帯の外になってしまう。その当時非常に話題になり報道された。
観測の結果は広瀬博士の説を裏付けることになり、日本の測地原点は経度で20秒西へ、緯度で10秒北へ修正しなければならない事がわかつた。アメリカの地理学協会の観測は日本とタイ以外は天候が悪く観測不成功、日本とタイの距離について は何か結論があるはずだが、何も聞いていない。
地図作りは、まず測量の原点で天文観測をして、経緯度と方位角を知る。次に地上に物差しをあてて距離を測り、三角測量・三辺測量によって次々に三角点の位置を決定していく。無論地球の半径が仮定されている。また誤差を少なくする為に、平均計算や天測が行われる。ただし次の観測点は見えなければならない。見えなければ角を測ることができない。こうして日本の地図の体系ができる。小笠原の地図の体系ができる。ハワイの地図の体系、アメリカの地図ができる。これらの地図の体系はそれぞれ独立であるから相互関係は不明である。各々の地図のずれは知る事ができない。そこで日食観測等の天体の現象を利用して大陸間の測量が必要になる。
日食の現象は地域が特定で頻度も少ない。太陽の光による月の影が地上を走る速さで測定するのが日食による距離測定である。星の光による月の影が地上を走る速さで測定するのが掩蔽による距離測定である。ただし月の縁はでこぼこしており、高い所では8000メートルの山がある。この誤差を避けるために、同じ月のへりでかくれる場所の軌跡をつくり、この線上で観測し、観測の時問差より距離を測る。等縁線観測(Equal Limb Line Observation)による大陸間距離測定法で、これを提案されたのが広瀬博士である。黒岩部長はこれを広瀬理論と称した。東京天文台のオツカル班(冨田弘一郎,古在由秀,真鍋良之助,柳沢)による予備観測の誕生・活躍の時代である。
アメリカ班の日本での観測を担当し、来日したジョン・オキーフもアメリカで別個に同じような観測をはじめ、1949~1950の観測で地球の赤道半径や月までの距離を改定した論文を発表する(1952)。
以上の事について岩波科学の本7「地球をはかる」(1973年7月発行)に古在さんの詳しい解説がある。そのなかで、『われわれの観測技術はある測量会社にひきつがれ、アメリカと共同して太平洋中の島々と日本やアメリカ大陸とをむすぷ観測がはじまつた。』と書かれている。その測量会社というのが我々のオツカル会社である。